移民送出国から受入国となった日本で、「多文化共生」とは何か考える~日本移民学会 第28回年次総会の雑感~

移民送出国から受入国となった日本で、「多文化共生」とは何か考える

~日本移民学会 第28回年次総会の雑感~

 

 

 

2018年6月23日、24日に、愛知県名古屋市の南山大学で、日本移民学会第28回年次総会が開催され、移民研究発表を多く傍聴した。

 

「日本移民学会」とは、文字通り、日本の移民研究者が研究論文を投稿・発表している学会である。25周年を迎えた同学会では、日本人が明治期から第二次世界大戦後まで海外移住して移民となった、いわゆる「日系人」研究や、バブル期に日本に来日して定住した移民研究などが行われている。移民と一口で言っても、労働のための移住や留学、国境を越えた移動の結果のコミュニティ形成など、さまざまな様態がある。

 

私が日本移民学会に入会したのは、在日ミャンマー人と何年も交流する中で、「日本に住むミャンマー人だけを見ているだけでは、日本にいる定住外国人の総体をとらえることは不可能であり、日本における多文化共生を語るに不十分である」と感じていたからである。日本にいるミャンマー人以外の外国人の様子をもっと知り、世界各国の移民の状況を知ってこそ、さまざまな国籍の人が日本に住む今、日本社会や制度のより良い在り方が見いだせるのではないか、と考えたからだ。

 

なぜ私は、移民研究にこだわるのか。

 

思い起こすと、私の祖父が日本植民地時代の台湾生まれ、台湾育ちの日本人だったことが、異文化への興味を抱くきっかけだったかもしれない。祖父は私が13歳のときに亡くなったが、中華レストランで中国語の掛け軸の意味を解説したり、南国に多く普及している里芋やバナナを好んで食べる食習慣があったりした。ステレオタイプな表現をするならば、日本人らしくない要素が祖父にはあった。白米に飽きるとバナナを主食のように食べる祖父の姿は、私が成人して結婚したミャンマー人夫の父親の食習慣と重なる。

 

祖父は幼い頃に学んだ中国語も、ソビエトのシベリア抑留後日本に帰国して米軍の人々を相手に商売をしたときにつかっていた英語も、最終的には大きな生活の糧にならなかったかもしれないが、「多言語を使って、時代を生きてきた」という意味において、移民らしい生き様があったかもしれない。私自身が「移民である」という認識はないが、厳密には、私は、かつて自国植民地に渡った日本人の子孫である。

 

さらに、私が今築いている家庭は、ミャンマー人移民と、非移民である私と、移民と非移民の子がいる家族である。家族各人の民族アイデンティティや帰属意識は、それぞれ異なり、また同じ社会に属している感覚はあっても、温度差はある。

 

たとえば、夫は日本に27年間住んでいるが、ミャンマー国籍を持っているし、成人するまでミャンマーで過ごしたので、自分を日本人とは決して思わない。しかし、「自分の国は日本だ。ミャンマーは自国でなはい感じ」と言う。自身が何人かというアイデンティティ基盤となる国籍と、自分の所属社会と認識する国は、異なっている。彼にとって日本は「成人後に自分を育ててくれた社会」で、日本語は「パン(生きる糧)の一つ」なのだ。

 

長女は「自分は日本人とミャンマー人の親を持つ人間」という認識を持っているが、「日本人」としての認識が強いように見える。しかしミャンマー人の親を持つ子としての義務や責任は自覚しており、ミャンマー語と日本語を使い分けて生活している。

 

私はと言うと、日本は母国だ。ミャンマーは「外国」で、「夫がいずれ実業や政治を展開していく国」で、「生んだ子のルーツがあるから、理解しようと努力している対象国」である。もっと無節操で端的に表現すれば、「ミャンマーは私にとってパン(生きる糧)の一つ」とも言える。だが、誤解がないように書いておくが、パンを得る間にさまざまな人間関係と愛情を得て、ミャンマーの人々と接することができる人生を楽しんでいる。

 

 

 

さて、日本移民学会年次総会の話に戻る。会場に行って初めて知ったのだが、日本移民学会にはかなりの数の外国籍もしくは外国にルーツを持つ人々が存在していた。バブル期に移住してきた日系人らの子女、子息らや他国からの留学生が、日本で学び、移民研究者になっている。日本社会を形作る要素に、日本以外のルーツの人々が参画する姿は、何も技能実習生や留学生が働く現場だけではない。学術界も同様に国籍や民族の多様化が進んでいることを実感した。

 

また、もう一つの発見は、日本移民学会の人々の発表や論文に共通する認識は、「日本はかつて移民送り出し国だった。それが戦後の経済成長を経て、移民受け入れ国に変化した」というものだった。

 

日本の外国人問題や外国人労働者の問題を報道で眺めると、ただ日本の外からやってくる人々がいるという現象の加速がある。だが、この学会では、「明治期から始まった日本人の海外移住から、日系人子孫の日本への回帰、現在の日系人の世界的な動き、中国残留邦人や樺太残留邦人の帰国者(注1)、あらたな欧米や世界各国に出ていく現代の労働・留学・国際結婚による日本人移民」といった日本人の歴史的な海外移動が文章で紡がれ、語られていく。

 

(注1)樺太残留邦人:日露戦争後に樺太に移動し、第二次世界大戦の日ソ戦終結後、昭和34年(1959年)までに行われた集団引き上げの対象にならず、樺太に残留した人々。1994年の「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律」制定後、樺太残留邦人の2世、3世の日本帰国が本格化。2016年までに104世帯275人が永住帰国した。ロシア語を母語とする人々が多く、日本、ロシア、朝鮮に民族ルーツを持つ。(日本移民学会・移民研究年報第24号「サハリン帰国者の若い世代の自己アイデンティティと言語使用・学習に関する考察 パイチャゼ・スヴェトラナ」より)

 

明治期に日本人が海外に移住した歴史は、たとえば1897年(明治30年)から始まったメキシコへの日本人移民に関する研究論文に記されている。それによると、―外務大臣に1891年に就任し、外務省に移民課を設けた榎本武揚は、日本人の海外移住は国内の人口増加問題対策と国外からの仕送り送金につながる「目下内外ニ対スル一大急務」であると確信していた―(日本移民学会・移民研究年報第24号「排日移民法と在メキシコ日本人」徳永悠 より抜粋)とある。日本だけでは日本人の雇用をまかないきれない、120年以上前の、発展途上の日本社会の様子が明らかになっている。

 

そして、より豊かさを求めて、メキシコからアメリカ国境を渡ろうと試みる移民の日本人、国境越えが禁止されてからも「自分たちが生きるため、また祖国の発展につながるのであれば、禁止事項を守るなどかまっていられない」という様子、海外での日本人コミュニティ内で結婚していく様子……総じて、現在もメキシコ国境からアメリカに移住しようと夢見る人々や、日本に来ている難民、移民の様子とそっくりである。

 

また、アルゼンチンの日本人移民社会に関する論文では、アルゼンチンの政治家のコネを得た日本人が、仲間を大勢洗礼に導いて、アルゼンチン社会になじもうとする様子が描かれているた。(日本移民学会・移民研究年報第24号「『呼寄期成同盟』にみる第二次世界大戦直後の在亜法人社会」月野楓子)在外日本人コミュニティでの複雑な人間関係もまた、今日本で生じている在日ミャンマー人のコミュニティの様子と似ている。政治家とコネのある日本人は、最終的には政治的だと批判されている。

 

同じように現在の日本にある外国人コミュニティの一つであるミャンマー人社会では、移民を受け入れたホスト国である日本との強力なコネクションを得るなど、何かに秀でる人間がコミュニティ内に出てくると、嫉妬が生じる。そして特定の人を足を引っ張る人間が出てきて、さんざん論争して、離合を繰り返し、しかし最終的には、何となくまとまって活動する。こうした動きは、小さなコミュニティで、しかもなかなか権力や知恵を得られない状況のままの環境で生じる人間関係かもしれない。

 

 

日本が本格的な移民受入国となった30年ほど前から現在までには、多くの移民と日本社会の間での齟齬があった。法務省入国管理局の雑な外国人管理が問題化し、外国人への差別感情が依然として存在していた。それでも、この30年ほどで、多くの移民が日本社会を理解して社会になじんでいき、多文化共生という概念も広がってきて、日本人の外国人移民を受け入れる感情がじわりと広がってきた。日本人と外国人移民の交流は、年々良くなりつつある。

 

しかし、日本人による外国人への差別は、ゼロになったわけではない。先日、こんな話を聞いた。タイに住むミャンマー人が、在タイ日本大使館で日本企業研修へ行くための査証審査を受けた際、大使館の日本人職員が「あなたはゲイか? 日本企業の社長と肉体関係があるか?」と質問したのだ。同性愛者かという話と、日本への査証審査に何の関係があるのか。10代の頃、人身売買によってタイに来たこのミャンマー人の人権など、この日本人大使館職員の頭にはないのだ。

 

だから、日本社会において多文化共生という言葉が流布している割には、「多文化共生」という言葉が、どういう意味で使われているのか? と疑問を持ってしまうのだ。どんな国籍やルーツの人間も、平等に自分らしさが発揮される社会だろうか? いや、「日本人」というメイン民族がいて、メイン民族を侵害しない程度に日本人以外の人が活躍していればいい、という認識が、日本の「多文化共生」の根底にあるかもしれない。他国では、多民族共生が憲法でうたわれている国もあるが、日本はそうではない。 

 

そしてどういう「多文化共生」の考え方で進んでいくかは、日本国民が本気で考えていかなければならないことになるだろう。かつてのメイン民族と他民族との構成比率が変わってくる時が、その国や社会の政治的分岐点になり得るからだ。

 

1990年代に一気に入ってきた若い外国人が、東京の清掃場所や食堂の洗い場で働くようになってから、日本人の高齢者でこうした場所で働いていた人々は、仕事を失った。多くの人の目につかない場所では、日本人と外国人の仕事獲得競争はとっくに始まっている。

 

日本社会にとって、留学生や技能実習生、就労の人々などを含む移民は、今のところ、労働力の調整弁や、経済発展のための人的移動と見られている面が大きい。

 

しかし近い将来、さまざまな国籍ルーツの人々が、日本社会のさまざまな業界で、中流からトップの地位に就いていく。どんな文化でも人々でも、活躍する人に住んでもらい、あらゆる社会階層で外国人もしくは外国ルーツの人々が存在する社会が、この日本でやって来る。「活躍する人が能力があれば、何人でも構わない」という社会認識は、よほど人手不足で苦しむ環境でないと出てこないように思われる。そして、「何人でも活躍してよい」と皆が思っていない社会が日本にはある。だから、日本はまだ、新聞が書き立てるほど、人手不足で苦しんではいないのではないか。

 

 

移民送出国から移民受入国になった日本で、日本人は、移民とともに豊かな社会を築けるか? 日本で中流階級という人々は若者世代にいなくなったというが、いや、いまだに日本社会で、外国人の雇用が入ってこないような中流階級層は存在すると思う。そこに移民の人々が入ってきたときに、「ほぼゼロの状態から人生を築き上げる」という意気込みのある移民とまともに戦って、日本人が皆、雇用を守り切れるだろうか? 

 

毎日移民と接する私には、日本育ちの人間とは桁違いのハングリー精神を見るにつけ、日本人が今後移民から学ぶ側面は多い、と感じる。この国の政治が描かない、移民と日本人がともに生きる社会の未来図は、国民一人ひとりが考え、作り出していくしかない。

 

(2018年7月5日 みやま さえこ)